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当センター会長の手記 ② -My Life with Fitness-
YMCAスタッフとして2

て研究所時代の研修の一端として、私は先駆的で多彩なスポーツプログラムを展開していた東京YMCA で実践的な体育実習に明け暮れた。
当時の東京 YMCA 体育館は国内でも数少ない総合的な体育設備が残り、戦前からの歴史的な格式をもつ重厚な室内体育館で、伝統的に受け継がれてきた多彩なスポーツクラブ活動が受け継がれていた。それぞれのスポーツクラブはダイナミックで明晰な指導力を発揮する会員ボランティアリーダー達のネットワークに支えられ、個人的にも実践的なトレーニングを積むことができたのは最良の研修となった。

そこには 1891 年に北米 YMCA 体育主事のJ・ネイスミスにより創作された YMCA 史上に輝く伝統的なバスケットボールや、1895 年に W・モーガンの創作によるバレーボールを主軸に、戦後いち早く導入したバドミントンや伝統を誇る器械体操クラブが熱っぽく躍動していた。


また当時の日本では数少なかった室内プールでは、安全衛生管理面のためにプールに入る前に浴槽で身体を洗い流し、全裸でプールに入るという男性オンリーのスイミングが実施されていた。最初は素っ裸で泳ぐことに不慣れで気恥ずかしかったが珍しい体験でもあった。


各曜日毎に活動種目が決められ、日本古来の柔道や空手などの武道をはじめ、先駆的に玉川学園により普及されていた OL 体操(デンマーク体操›はリーダーのタンバリンのリズムに合わせた一糸乱れぬ集団体操で目を見張る見事なパーフォーマンスは圧巻であった。

入文化で一斉風靡した米国の伝統音楽カントリーウエスタンのリズムと陽気なシンギングコールによる華麗な男女のスクエアダンスや、大流行の世界各国のカラフルなコスチュームを身に着けたフォークダンスを楽しむ青年男女で賑わっていた。


私にとって、この1年間の研究所生活は学生時代とは比較にならないほど濃縮された学習と実践研修に明け暮れ、多彩なカリキュラムによるインターンシップ体験はその後の YMCA 体育主事職の遂行に大きな研修成果をもたらせてくれた。
1958 年3月(昭和 33 年)に研究所を卒業し、名古屋 YMCA に着任すると Physical Director の担当を命じられ、体育事業部の責務を背負うことになった。それは先鋭的な室内体育館で伝統に培われた YMCA の多面的な体育事業の責任者としてプロフェショナルな業務を果たす厳しい試練の場とな った。
着任後の4年間は Physical Director として、それまでの自分の Life style を見直し、それまでの基 本的な生活習慣を組み換え,特に Physical 面で徹底したトレーニング負荷と栄養管理による身体改善に明け暮れた。


また専門職として必要な学習のため各地で開催される体育スポーツセミナーに参加し、さらにYMCA の組織的人脈を通して大学の医学部や体育学部の授業聴講の機会を与えれ、指導教授から直接の学習の機会が与えられことは本当に幸運であった。また職務上の利点で時間・経費をかけて可能な限りの公的なスポーツ指導関連のライセンスの習得に専念することも許された。さらに毎年、全国YMCA体育主事会を通して先輩から指導や助言を受け、スタッフ間での情報交換や体験交流を続けながら、新たな社会体育の方向づけを試み、さらに未知なるプロジェクトの開発に専念することができた。


特筆すべきは東京大学の運動生理学の猪飼道夫教授やレクリエーション指導の権威であった北米YMCA 派遣主事の E・R・バックレー氏、キャンプ活動の専門家であった大阪 Y の松田稔氏、戦後の日赤安全救急法推進に寄与された小森栄一氏、また名古屋大学運動生理学の松井秀治教授等に親しく指導やアドバイスを受ける機会が与えられ、またアメリカでの Fitness 運動の先駆者であるイリノイ大学のT・キュアトン教授・フィットネスの著者A・スタイン博士などからの直接講習など Fitness黎明期ならではの幸運で贅沢な研修の機会が与えられた。
こうした研修体験を経てYMCA体育主事としての任務を遂行しながらYMCAの社会的対応に応え得る覚悟と信念が芽生えていった。その過程で私自身は未知の体育スポーツ専門分野に挑み、次々と企画するプロジェクトに飽きることのない好奇心が広がり、未知の想像力を広げ、実践的な創造力を啓発する絶好の機会となった。

何よりもYMCAでの恵まれた自由な職務環境の中で、次々と必要な経費が予算化され、新しい企画や立案が認可され、実践と支援を受ける場が与えられていったことは本当に幸運であった。

当時はまだ珍しく高額なトランポリンの購入や、体育館のコーナーに 40 枚の畳を敷き詰め、東京の本部道場から師範を招聘して日本伝統的な合気道教室を開設した。小体育館には、当時としては近代的なトレーニングマシンを設置し、流行し始めていたマシン・フィットネスによる企業エクゼクテ ィブのための Executive Health Club を新設し、親しいスポーツ医師の協力を得て、専門トレーナーによるパーソナルな運動処方と個人レッスンを提供する新な体力づくりとしてメディアに注目された。

それまでの伝統的なYMCA体育プログラムの枠を超えた試みであったが、組織が総力を挙げてバ ックアップし、新しい挑戦と開拓を続けることができた。
また、YMCA では室内活動のみならず、夏季には小学生から高校生に至る中津川市の根ノ上高原で長期サマーキャンプが開催され、自由な野外活動を求める多くの小中高生で賑わった。

冬季には満員の夜行列車に揺られながら長野県、岐阜県下のスキー場で開催したスキースクールなども目新しく毎回超満員の参加者で溢れ返っていた。また常滑港ではクルーザーや小型ヨット教室による Seaside Camp も常設された。さらに普及し始めたユースホステルを利用しながら、京都Yや神戸Yまでの遠距離サイクリングツアーや、名古屋から木曽路を辿って上高地までの一週間のトレイルウオーキング。さらに山岳クラブが中心となった北アルプス縦走登山などもダイナミックな野外活動として好評であった。

また 1952 年北米Yの派遣主事として来日した E・R・バックレー氏の指導で先鋭的な Recreation活動の定着化と、基本的な理論や技能習得の研修会を頻繁に企画され、その時代の社会体育界でYMCAは突出したリーダーシップを保有し、多くの青少年活動の先駆的成果を挙げ斬新なアイデアとプログラムが注目を受けていた。

体育館では多くの目新しい欧米型の軽スポーツ(ゲートボール・リングホッケー・フロアーテニス・ウオールコートハンドボール etc)の普及や、Recreation・Camp の指導者講習会を開催し、北欧や米国の指導者を招聘したフォークダンス指導者講習会など、新しい社会体育の先端基地として常に超満員の受講生で賑わっていた。
思えば戦後の動乱期に日米安保闘争や労働争議の嵐が吹きまくり不安定な社会情勢の中で方向を見失しなっていた当時の若者たちにとって、YMCA 会館は平和で新鮮な社会文化の殿堂として圧倒的な支持を受けていた。また地域関係団体からも連日のように多面的な青少年育成の指導者派遣やキャンプ講習会などの要請を受けた。そこには青少年の幅広いスポーツ・レクリエーション・文化活動の有能なリーダーシップを持つ人的資源の宝庫として各方面から講師派遣の要請を受け、地域社会のneeds に応えて YMCA 活動が光り輝いていた時代であった。


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