こうした欧米のフィットネス運動の影響を受け、新たな胎動に着目した日本 YMCA でも国際的ネ ットワークを駆使して多くの Fitness 指導者や研究学者が招聘され、戦後の日本の新たな社会体育の方向が模索され、常に時代の先端への啓蒙開発に寄与しながら長い歴史と伝統を継承し、Fitness 事業の展開に挑んだことは大きな社会的遺産となっている。
1962 年(昭和 37 年)東京大学客員教授として来日中のジョージ・ウイリアムス・カレッジ教授 A・H・スタインハウス博士が新たな YMCA 体育理念として、後のウエルネスに移行する契機となった赤三角(spirit・mind・body)のシンボルを Total Fitness の概念として示唆された。同時に著書「フ ィットネス」がYMCA同盟から出版され、多くの目新しい健康づくりの指針を得ることができた。
戦後の日本に初めて導入された Fitness という新しい概念は、ダーウインの進化論で提唱されていた適者生存説(すべての生物は、多様な生活環境の中で生存に必要な適性を持つもののみが生き残れる)から引用されたといわれ、現代社会に潜在する健康阻害要因の分析や予防を考慮し、現代を逞しく生き抜くために、総合的な心身の適性(Wellness)を高めるという要旨から発想されたものと言われている。
当時、日本 YMCA では Fitness という新しい概念に戸惑いながら、体育現場ではその理念や要旨を研修しながら具現化に向けて急ピッチに試行錯誤を繰り返していった。
1964 年(昭和 39 年)に日本の戦後復興の証として、新幹線が新設される中で東京オリンピックが盛大に開催された。同時に競技会場の一角で第6回世界 YMCA 体育協議会が招集されて、各国の専門家による本格的な Trim & Fitness 事業の展望をテーマに協議が開催された。
この東京オリンピックで世界のスポーツ選手の能力の高さに着目し、相対的に日本選手の能力レベルの低下が課題となり、大会終了後の 12 月に国会で国民の健康・体力強化対策が議論された。翌年の 1965 年に国民運動推進の母体として史上初の「体力づくり国民会議」が設置された。
それを契機に日本国民の多くが、それまでの身体的に恵まれた特定のエリートスポーツ選手のパーフォーマンスを観戦する受け身の状態から、自らが多様なスポーツ競技に自発的に参加するスポーツとして大きく転換し、いつでも、どこでも、だれでも参加できる社会文化として受け入れられた。それは戦後の日本の驚異的な経済復興と共に、急速なスポーツの大衆化現象の画期的なイノベーションともいえよう。
ジョギング、サイクリング、美容体操、ジャズダンス、スイミング、テニス、ヨガ、オリエンテーリング、ジャザサイズ、ジャギー、シェープアップ、エアロビクス、登山、スキー、スケート、ヨット、ボディービル、フィールドアスレチックなどの多彩なスポーツ文化が開花し、スポーツビジネスが台頭し、一般市民が多様な同好会を開花させ、また個々に自発的な参加による健康ブームが急速に広がっていった。
1968 年(昭和43 年)に日本YMCA でのFitness 事業が画期的な幕開けとなったのはイリノイ大学で運動生理学の権威として実践的でユニークな体力テスト(成人体力テストの原点)や、トレーニング処方に精通したトーマス・キュアトン博士を招聘し、2週間の Fitness clinic が各 City YMCA で開催され Fitness 指導者養成に大きな成果をもたらした。
博士は運動中の循環器負荷による Heart Rate(呼吸循環機能測定)の計測法や、脈波の測定技法、総合的な身体能力測定に有効な18項目パーフォーマンステストなど紹介され、新しい Fitness の実践クリニックを通して新たな Fitness の方向を共有し各地で program が推進されるようになった。
その後も、国内では東京大学の運動生理学教授の猪飼道夫教授による新たな体力(行動体力・防衛体力)理論や、名古屋大学の松井秀次教授の心肺機能強化トレーニング(Aerobics)処方、その他、先進的な体育専任教授達からYMCAが中心となって Fitness 研修会が頻繁に開催された。同時に実践の場として各YMCAではPhysical Fitness を軸として新たな社会体育プログラムの開発が積極的に進められた。