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当センター会長の手記 ⑦ -My Life with Fitness-
私とFitness との出会い

967 年(昭和 42 年)全国 YMCA から Chicago Internship に参加の機会が与えられ、私も4名の 仲間と共に北米YMCA でFitness 事業推進の中心であったシカゴ市内の17 拠点のCity YMCA 体育事業を訪問研修することができた。

その間、セミナーで Fitness program の体験学習を中心に多彩な YMCA 事業のプログラムを検証し、先鋭的なアメリカでの青少年 Fitness の実態に触れることができた。この米国研修こそが、その後の人生転換の契機となり Fitness の啓蒙と普及を自分のライフワークとして選択することの契機となった。

当時、アメリカでは運動生理学の権威であったケネス・H・クーパー博士が、空軍宇宙基地で飛行士の心肺機能強化トレーニングに Aerobics(有酸素運動)を提唱し、世界中でジョギング(持久走)ブ ームが広がり始めていた。

当時、日本のTV放映でお茶の間体操として人気のあった竹腰美代子や小桜葉子のリズミカルなシ ェープアップ運動(美容体操)などの影響もあって、女性の間でジャギー(Jazz+Gymnastic)とかジャザサイズ’(Jazz+exercise)と呼ばれるようなリズム運動が都市を中心に広がりはじめていた。やがてアメリカ独自のリズミカルなAerobics (有酸素運動)に移行していくが、この言葉も運動生理学用語として用いられてはいたが、一般的なフィットネス運動の通用語として普及されるとは当時は夢にも思わなかった。

1963 年に名古屋 YMCA では新たな幼児体育の構築を考え、ソフトな感性と巧みな調整力、また粘り強く明晰な判断と繊細なリーダーシップを持つ初の女性体育専任スタッフとして中井恵美子姉を招聘した。その結果、YMCA幼児体育の新たな方向性が具現化しYMCA独自の幼少年 Fitness 事業が飛躍的に発展した。

また、後にYMCA主事として Fitness 事業の定着化に寄与した青樹和夫体育主事、現鈴鹿国際大学学長の市野聖司先生、アクアビクスの先駆者の橋口隆生氏等も当時は学生ボランティアリーダーとして情熱を傾け、先見の明をもつ精鋭として体育館で連日のように活躍していた。

これらの若き Fitness フロンティア達の情熱によって、Fitness 普及に必要な情報や資料が集められ、斬新なプログラムを北米Yから情報や資料を参考にしながら、多様な想像力を駆使してユニークな Youth Fitness の啓蒙開発に傾注した。
また当時、米国 YMCA では伝統的にスイミングスクールが盛んであったが、日本では東京 YMCAを除いて他のYMCAには室内スイミングプールは設置されていなかった。名古屋YMCA では私立 聖心幼稚園のプールや地域で営業するスポーツセンターのプールや高額なホテルのプールを借用して、館外活動の一環として徐々に幼少年の水泳教室を企画実施していた。

当時、欧米で流行していた Tiny tots(乳幼児水泳教室)での Arm Float 利用による独自の母子水泳教室に人気が集まった。また体育館内でも親子を対象とした Fitness 教室を企画し、母子が互いの肌のぬくもりを実感し、子供の体重負荷を利用しつつ筋力運動のできる親子組体育の可能性を探り、独自の組体操を開発していった。

かくして、それまで伝統的に男性のスポーツ殿堂であった YMCA 体育館の中に「女性のためのShape Up クラス」を開設し、時代の要求にフィットして女性会員が増加。やがて午前・午後の体育館は女性と子供中心のプログラムで占有されるようになっていった。

こうして名古屋 YMCA では Fitness 運動が体育事業の中心になり、多くの会員が増加し次々と新たなプログラムを開発しながら順風満帆の上昇気流を続けていた。しかし、キリスト教を基盤とした長い歴史と伝統の基づく YMCA(キリスト教青年会)内では急速に拡大し続ける Fitness 事業の偏りが懸念され、IT 時代の流れと本来のYMCA 運動原理や社会的責務、役割、機能などの根本的な命題を巡ってスタッフや理事会で協議が繰り返されていた。

その時期に私自身は多忙な仕事に追いまくられ家庭を顧みる暇もなく、個人的に新たな人生の選択を決断する岐路に立っていた。その中で YMCA から離脱して、新規に Fitness の起業化を考え、新たなチャレンジとして、もっと自由な発想でユニークな Fitness Program の開発と啓蒙を具体化するために組織を離れて個人の次元で自立することを考え続けていた。


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