1969 年(昭和 44 年)私は YMCA から離れて自立することを決断した。14 年間に渉り多くの未知との遭遇や研修体験と固い友情の絆に結ばれたYMCAの同志や、体育リーダー仲間たちとの決別は辛く、心が揺れ動き、また不安や寂しさに押し潰される時期でもあった。
しかし既に不退転の自立を決断し、たった一度の人生での選択を決断し、新たなNPFCの創立を貫き通して Fitness の啓蒙普及のために自立起業への第一歩を踏み出した。
当時を振り返ると、実際には孤立と不安が続いたが、M・ルッターの「たとえ此の世の終末が明日であっても私は今日リンゴの樹を植える」という言葉を励まされながら、いつか豊かに実るリンゴの結実を信じて次なる人生の夢に賭けた。
新たに社会体育を起業化することは多くの重い課題があったが、組織を具体化し Fitness 活動を継続するためには躊躇逡巡している暇もなく急ピッチで開設の準備に追われた。この間、生涯の伴侶としての人生を分かち合ったメリーの熱い励ましと心強い支援を受け、孤立無援状態の厳しく慌ただしい日時を刻みながら必死になって準備を重ねた。そして 4 月15 日に名古屋の中心地栄町の一隅の山市ビル 4Fに名古屋 Physical Fitness Center の看板を掲げることができた。
時あたかも、NASA の宇宙開発でアポロ計画が実現し、人類が初めて月に立つ快挙を成功させたニュ ースで世界中が沸き返っていた。この未知の世界に立つ宇宙飛行士の雄姿を自分の門出をダブらせながら NPFC の未来の成果を祈った。当夜 NPFC オープニング パーティーには会場に入りきれないほど多くのYMCA時代の同僚や体育リーダー達が駆けつけてくれ、暖かいエールを贈ってくれたことは生涯忘れることのできない感動の開幕であった。
さて自立を選択したものの、私自身のキャリアも知識も乏しく僅かに名古屋 YMCA で Physical Director として勤務していた 14 年間の経験のみを唯一の拠り所にして、新たな組織の立ち上げは些さか無謀に思われた。
実際に社会的バックアップとなる強力な人脈も財力も無いままの自立宣言で、当初は組織運営に立ち塞がる様々な問題に直面し戸惑いの連続であった。しかし、幸運にも未来に向かう社会的変化の波は新たなアイデアや NPFC 独自の企画をバックアップしてくれ、さらにバブル経済上昇期の追い風を受けながら、徐々に地域に受け入れられ、Learning by doing 精神で事業展開が順調に動き始めていった。
当初 NPFC の基本方針として、「いつでも、どこでも、だれでもできる健康づくり」を旗印として中核になる Center Gym を持たないまま、6 か所ほど地域で可能な会場を借用した。それまでの信頼関係から支援を受けて開設できた各フィットネス教室(幼児と女性対象)へ専任インストラクターを派遣するという健康の出前をコンセプトとした Fitness クラスをオープンさせた。
それは正にモデュラー時代の先駆けとしたレンタル革命やボーダレス社会のイノベーションの中からの出発であった。
まず、Fitness の普及と啓蒙を実践するために、当面クラスに参加する幼児達の送迎に簡便な近隣の会場であることを優先に考えた。そこでは身体活動に十分な空間さえあれば特別な運動機材は不要と考えてプログラムを企画していった。
当初に私が提供したカリキュラムは、当時流行の Exercise machine や近代的な器具設備ではなく、運動できる空間で徹底した楽しい運動プログラムを編成することであった。参加する子供たちにとっても保育園や幼稚園で経験したことのない異日常的で新鮮な意外性を提供することであった。
それは伝統的で専門的な旧来の体育指導の発想ではなく、それまで培ったキャンプや野外活動で見聞した様々な体験をイメージし、Recreational sports や Physical Game などから有効なトレーニング意図と、適格な指導理念に情熱を傾けるトレーナーによって、無限の多彩な Fitness program の展開が可能であることを立証したかった。
そのため地域に居住する母親たちが中心になって地域公民館や幼稚園ホール、マンションの集会室などを借り受け、また講演会などでフィットネス教室の開設を訴えた。要請を受けた地域の婦人会や、公民館、幼稚園の関係者、PTA の母親たちと即時にネットワークを組み、開設のための協力と知恵を拝借し、エプロン姿でも手軽に参加できる女性クラスを組み上げることも考えた。そして毎回のように参加者に fitness の生活化を基本とした新たな健康づくりや新たなライフスタイルを提案し続けた。
そのため新設クラスの要望に即応して、常に目新しいプログラムやアイデアを提供することが課題であった。
それは誰も経験したことのないようなユニークで先鋭的なカリキュラムを創作し、プロフェッショナルで魅力あふれる Fitness の世界に没頭できることは辛く厳しい試練であったが、未知への希望に胸を膨らませる本当に楽しい日々であった。
1970 年代は Physical Fitness という言葉が珍しく、新たな生活文化への提案として注目され始めていた。時の流れは幸運にも組織の発展に不可欠なマス・メディア(NHK・東海TV・CBC・名古屋TV・各新聞社など)が関心を示し、頻繁な TV 出演要請を受けたことなどもNPFCの存在を知らしめる大きな媒体となった。当時は名古屋市内の TV 各局からの出演機会が増え、NPFC 開設以来数年にわたって TV を通して家庭でできるトレーニング実習の紹介や、定期的なラジオ番組での Fitness 情報を提供したり、アメリカ人女性インストラクターとして注目されたメリーの頻繁な TV 出演によるShape up のデモンストレーションなどは Fitness のイメージ拡大に大きな影響を与えた。
当時名古屋市内には Fitness Studio や Gym が建ち始めていたが、殆どはアメリカ直輸入のトレーニングマシンによる Body Building を意図したものが多く、アメリカ入好みのマッチョな筋肉美を強調するような、かなり偏ったイメージが広がっていた。
他方、女性の健康美を求めるクラスが急速に流行し始め、リズミカルな美容体操やシェープアップ教室、ジョギング、ヨガ、ジャギー、ジャズダンスなどの言葉が入り混じり、それまでのパターン化されていた伝統的な体育活動のジャンルが急速に変動し、新しいスポーツ文化として受け入れられていった。
NPFC が自立して最初のビッグプロジェクトの受注は印象深いもので、以前から親交のあった朝日厚生文化事業局長(伊藤信三氏)からの誘いで、朝日新聞社主催の第一回洋上大学の講師として招聘された。
青年男女 400 人と一緒に太平洋航路を客船「さくら丸」で往復する船旅で、ハワイからサフランシスコまでの40日間の船旅で、UCLA学生交流も含めて、船上で多くの著名な講師陣から多彩なセミナ ーを受講する画期的な企画であった。
そのプログラムの一環として、私は上甲板デッキでの朝の Fitness Exercise を担当し、揺れる船上で様々なコンディションづくりやデッキマラソンなどで爽やかな汗を流し、快適な潮風を受けながらのクルージングが初仕事になったことは思い出深いものである。
また YMCA 時代からの縁で 1970 年から4年間に渉り、中部電力などの大手企業から文体指導員養成の要請を受け、初の企業内 Fitness 研修に取り組む機会が与えられた。
その概要は社内で選抜された社員を対象に、企業内の人間関係促進に有効とされたレクリエーション原理と実習・健康維持のための Fitness 原理と実践的なトレーニング処方や体力テスト・さらに具体的な個別の Physical Profile 作成などを年代別にカリキュラム化し、先鋭的な社内での人材開発を目標とした研修であった。
当時、先鞭を切ったこの企画が中部地方の大手企業に注目された。1973 年の石油ショック以降も、先進的な変化を読み取り、素早い対応を求める大手企業からの要請を受け、新日鉄・トヨタ・三菱工業・名鉄・東邦ガス・愛知県労働協会・大同特殊鋼・NTTなどや、教育行政や公共団体などからも連日のように Fitness 研修会や講演依頼を受けた。
その後も社会構造の変化と共に、地道な Fitness class の拡大と並行して、25 年間に渉って北海道から九州まで全国各地 500 社以上の企業内セミナーや講演会による啓蒙を続け、NPFC の基礎的地盤の確立と中部県下での社会的認知を克ち得ることができた。