970 年に発足させた NPFC の歩みを組織形成の過程で、準備発足期・成長発展期・成熟安定期に区分することができる。
当時の時代背景として大阪万博、沖縄返還、間山荘事件、ベトナム戦争終結、中国国連加盟、スミソニアン体制、石油ショックなどが国内外の変動期で揺れ動いていた。そこでは常にイノベーションの波が押し寄せ、急速に生活の革新と文化の変遷が続き、社会体育やスポーツ文化への関心が広がりと参加要望が続いていた。
1970 年代は未だ Fitness 運動の認知度は狭く、正確な評価基準も定まらないまま、多くのメディアによる取材効果が出始め、徐々に社会的な注目を浴びるようになってきた。やがてバブルの上昇機運の中で急速に Fitness の企業化が拡大し近代的な Fitness Gym が次々と建設されていった。
また近代化する都会の騒音や大気汚染、食品添加物などの健康阻害に気づき始めた都心を中心にアーバンライフの豊かさと健康リスクの狭間で自己保存と健康維持のために自発的なスポーツ文化が生活の中に積極的に組み込まれていった。
その当時の社会現象としてテニスブームなどは顕著な例で、色鮮やかなテニスファッションとラケットを持つ若者達でリゾート地のテニスコートはいつも満員状態で溢れ、高額なテニスクラブの入会やコ ート予約はひと苦労であった。またドイツのトリムパルクをヒントにした新たなフィールドアスレチックなども乱立したが、完全な商業アミューズメントパーク化したため、指導員の不備や、安全管理不足が問題になり日本医師会から警告を受ける事態になり、あっという間に消滅していった。
それでも自発的なマイペースで健康を勝ち取るジョギングやサイクリングなどは誰もが手軽に参加できる有効な Aerobics 運動として大きなブームを巻き起こした。
こうしたブームの中で、NPFC 事業拡大の絶好の機会となったのは、各地に開設されたカルチャーセンターでの Fitness 教室開設であった。当時、各新聞社(中日・朝日・読売・毎日新聞)による都市部での文化センターは民間で、時代の最先端の文化活動を習得できる場として多くの市民が多彩で斬新な講習会に参加した。名古屋の中心街栄町に建つスカイル10F の朝日カルチャーセンターでは日曜日を除いて毎日、老若男女から幼少年まで対象別の NPFC 主導による Fitness クラスが開設され、3ケ月ごとの参加更新日には長い行列ができる程の賑わいであった。中日・毎日・読売から NHK まで多くの文化センターが開設されフィットネス指導員の派遣を要請され、嬉しい悲鳴と同時に専門の Fitness instructor の需要が不可欠となった。